沼は思ったほど大きくはなかった。
　この森に突然出現してからそれほどの日数が経っていないにしては、木の枝や浮き草が水面を覆っており、水はひどく淀んでいるようだ。周囲には沼を隠すように背の高い葦が密生し視界を悪くしている。
　もともとこの場所に生えていた木々たちはおそらく湿地にのまれてしまったのだろうが、十数本はその淵にしがみつくようにして生き残っていた。しかし森で見たものと明らかに違う様相で、黒々とした樹皮はでこぼこと盛り上がり、妙な形にねじくれながら伸びる枝と枝との間には、蜘蛛の巣のような白い糸状のものが複雑に絡まって、めちゃくちゃに張りめぐらされていた。
「気味が悪いわ」
　前方に広がる異様な光景にリサーナは顔をしかめてつぶやいた。
「んん……？」
　ナツは触手の化け物を警戒してかきょろきょろと辺りをせわしなく覗っていたが、目を細めて一点を見つめたかと思うと、はっと何かに気づき、慌てた様子で沼へ向かって駈け出した。
「ナツ？」
「ふたりとも、ちょっとこっちへ来てくれ」
　そう言いながらも、待つつもりはないらしい。少年はどんどん葦をわけて進み、淵に生えた一本の木によじ登ると、するすると沼の内側へ張り出した枝を伝っていった。
「おいナツ、一体なにをする気だ……」
　仕方なく後を追いながら、彼の向かう方へに松明をかざしたエルフマンはうっと言葉に詰まり、つられて見上げたリサーナも表情を凍りつかせた。
　ナツが手を伸ばした枝の先には、蔦がちょうど網の目のようになっていて、そこに人間の男がうつ伏せに引っかかっていた。肌は青白く、衣服はところどころ破れてべっとりと血と泥で汚れている。
「どうしてあんなところに……。さっきの緑のやつに……こ、殺されたの……？」
「いや、死んじゃいねえ、まだかすかに息がありそうだ」
　ナツは慎重に男の身体を引き寄せ、肩を支えながら体勢を立て直そうともう片方の手で枝を掴んだ。男は身の丈はそれほどでもないが、小太りでかなりの重量があった。意識がない人間を抱えるには足場も悪すぎる。
　と、蔦から外れた男の両足が、網目の間からだらんと沼へ垂れ下がった。ナツが慌ててその腕をとり、なんとか木の上に引っ張り上げようとした時、暗い沼の水面がぬらり、と静かに揺らいだ。
　次の瞬間、地響きのような轟音とともに、体長七、八メートルはあろうかという巨大な魚がザバァッと水面を割って飛び出した。
「……！？」
　水飛沫は淵にいたエルフマンたちにまで届き、じゅっと音を立てて松明の火が消えた。
「ナツ！！」
「動くな、リサーナ。ナツなら大丈夫だ」
　飛び出そうとした妹を引き止め、エルフマンは少し後ろへ下がりながら目を凝らす。
　既に高い位置にまで登っていた月の光のおかげで、闇の中でもなんとかその魔物の姿をとらえることができた。ほんの数秒間、沼から外に表れている部分だけしか見えずとも、それは度肝を抜かれるような容貌だった。
　体表は溶岩のようにゴツゴツした黒っぽい鱗で覆われ、鰓の少し下には爬虫類に似た前足があった。身体のサイズに比べてもアンバランスなほど大きな頭は少し平べったく、魚と言うよりはやはりカエルやトカゲといった生き物を思わせるが、そのぶん横に切り込みを入れたように裂けた口がより際立つ。小さな目はとってつけたようで、ものを見ているとは思えなかった。何かもっと別の感覚を備えていて、視覚を必要としていないのかもしれない。尻尾は水中にあるものの、その機動力や躍動感は魚影からだけでも十分に見て取れた。
「石の鱗で、４本足の魚……あいつか……」
　ナツは木の上で男の腕をしっかり掴んだまま、現れた敵の動きを見逃さんと意識を集中していた。
　魚はその巨体をしなやかにくねらせると、今度は飛沫をほとんど上げずに悠然と淀んだ水中へ消えた。身体をすべて沈めてしまうと、不思議なことに水面には一閃の波紋すら起きず、沼は何事もなかったかのように静まり返ったが、それもひと呼吸程度の時間だった。
　キシャアアァァァァンと、低音とも高音とも取れない、耳をつんざくような鳴き声が静寂を破った。
　魔物が二度目に顔を出したのはナツがしがみついている枝のすぐ真下だった。大きく開かれた口から覗く歯はびっしりと二列に並んで生えており、ギザギザに鋭く尖っている。
　派手に跳ね上がった水が顔にかかり、ナツはつい一瞬両目をつぶった。
「ナツッ！避けろーっ」
　エルフマンが叫んだ時には既に遅かった。
　不安定な姿勢で両腕に感じていた重力がふっとなくなったと同時に、ナツは反射的に後ろのへ枝へ飛び退いていた。直後に感じる違和感。
　支えていたはずの男の身体が、跡形もなく消えている。
「え……」
　ナツがそのことに気づいたのは、眼下で魚の背びれが水面を這うように移動するのを見たあとだった。
　驚く間もなく、敵は事も無げにナツから獲物を攫って見せたのだ。
　とぷん、とその身がすべて沈むと、やはり水面は凪いだようにぴたっと静止する。再び静寂に包まれた沼の水面の一部が、みるみる赤く染まっていくさまを、ぼんやりとした月明かりが妙に生々しく照らしだした。
「嘘……だろ……」
　目の前で人が死ぬところを見るのは初めてではない。むしろ、自らの手で誰かを死に至らしめたこともないとは言えない。それでも、かすかな体温の感覚が残る両手のひらをじっと見つめながら、ナツは木の上で動くことができずにいた。

「あの男の人……今、食べられちゃった……のかな」
　リサーナはようやくして口を開いた。
「エルフ兄ちゃん、あれ……依頼の、魔物だよね……」
　小さく震える妹をかばうように立ちながらも、エルフマンは足元が竦みそうになるのを必死で抑えていた。
「ああ……村長の言っていた魔物に間違いねえだろう。……話にくらべて随分でかいがな。それに、考えていたよりずっと凶暴のようだ」
　あえて客観的に答えようと努めたが、心中、かなり動揺していた。自身はもとより、リサーナを戦闘に参加させることが恐ろしくなっていたのだ。
（……もし水中に引きずり込まれたりしたらなすすべがねえ）
　冷静にならなければいけない、とエルフマンは思った。
　緑色に発光する触手を持つ得体のしれない化け物、そして人を喰う獰猛な巨大魚の魔物――この二体は沼を拠点に、ほぼ共存していると見ていいだろう。ならば、早い段階でどちらかをなんとかして片付けなければ、双方と同時に鉢合わせることにでもなったら、それこそ絶望的だ。
　エルフマンはキッと顔を上げると、未だ木の上で呆然とする少年に強い口調で言った。
「ナツ、気持ちを切り替えろ。……さっきの男、あの時点ではたしかに息があったのかも知れんが、あの出血量じゃどっちにしろ長くは持たなかった。そりゃ不憫だが、死んだのはおまえのせいじゃない」
　ピクリ、とナツの肩がわずかに動いたのを見て、エルフマンは少し安堵する。
「あの魔物の姿を見たろ、一筋縄じゃいかねえ。ボーッとしてるヒマはねえんだよ」
「……ああ、わかってる」
　ナツは小さく答えて、ポケットから何かを取り出した。それを大切そうに包み込むように胸の前で握りしめてから、そのまま前屈みに両手を額に押し付けた。枝の上にあぐらをかくように座り、手の内にあるものを恭しく掲げて頭をもたげる様子は、まるで祈りを捧げているかのようだ。
「ナツ……？」
　リサーナはそんな少年の行動にじっと見入っていた。
　月が浮かび上がらせるナツの姿は、この状況になんだかひどく場違いで、しかし少女の目には妙に神聖さを帯びて映った。
「もう、大丈夫だ。一人で勝手に動いたりして悪かったな」
　そう言って、ぴょんと木から飛び降りてきたナツの表情はいつもと変わらないもので思わずホッとする。
「ほんとよ……あまり無茶なことしないでね」
「ああ」
　なんだかさっきの情景が幻だったのではないかと思えてきて、同時に理由の分からない不安にかられそうになり、リサーナはそれ以上考えるのをやめた。

　しばらく沼の水面を観察してみたが、魚影どころか、水音ひとつ、さざ波ひとつ起きる様子はなかった。小石を投げ入れてみると着水の一瞬だけ水が跳ねるが、そのまま静かに沈んで水紋は生まれない。
　エルフマンがため息をついた。
「とにかく水中では勝ち目はないと見ていいだろう。この沼が特殊なのか、あいつの能力なのかはわからんが、水に潜られたが最後、次にどこに現れるかすら見当がつかねえ」
「たしかに、この凪状態の水面は厄介だな。あの魚野郎、水中でもあんなに動きまわってんのに、なんで波ひとつ立たねえんだ」
　ナツが首を傾げてつぶやく。
「たとえ魚影が見えたとしても、あのとんでもなく素早い動きを捕らえるのは、いくらナツでも難しいだろう。まずはなんとかして地上へおびき出したうえで、ある程度弱らせる必要がある」
「そういうことなら、私に任せて」
　それまで黙って聞いていたリサーナが身を乗り出して声を上げた。
「私なら魔物を引きつけられるわ。まず鳥の姿で沼の上を旋回するの。あいつが水の外に顔を出したらすぐ岸に向かって全速力で飛んで、陸まで上がってきた所で足の速い動物に変身すれば」
「ダメだ、リサーナ」
　ぴしゃり、とエルフマンがその提案を一蹴した。
　だが、リサーナもそう言われることがわかっていたのだろう、全く怯むことなく落ち着いて兄に向き直る。
「聞いて、エルフ兄ちゃん。……私は戦闘では大した戦力にならない、それはわかってる。だけど、だからといってただ足手まといになるだけなんて嫌なの。ここまできたんだもん、ミラ姉とエルフ兄ちゃんの妹として、妖精の尻尾の魔導士として、できることはやらせてほしいの」
　リサーナは真剣だった。
「バカ言うな、今までの敵とはわけが違う。そもそも囮なんて危険な真似、いくらなんでもさせられるわけないだろう」
「危険なのは承知の上よ。だから私がやるんじゃないの。よく考えてよ、あいつを地上へ上げるにはこの方法しかないわ。それとも何？さっきみたいに木の枝から手を伸ばしておびき寄せる？あのおじさんみたいにあっという間に食べられちゃうわよ！」
「……！」
　あまりの剣幕に言葉も出ないのだろう、叱るでもなだめるでもなく、エルフマンは信じられないといった面持ちでリサーナを見つめた。
「私に、やらせて」
「……はぁー」
　ナツは大げさに深呼吸すると口を開いた。
「わかった、ならリサーナ、囮はおまえに任せる。でも、あまり水面に近づかないようにできるだけ高く飛ぶんだ。オレたちは……そうだな、向こう岸の、あの少し広くなっている辺りに待機しておく。敵が陸へ上がったら、引きつけようなんて考えずに、とにかく一目散に逃げろ。あとはオレがなんとかして足止めして、あいつを弱らせるから、エルフマンはその間に接収の準備を完璧にしておくんだ。それでいいだろ？」
「ナツ……、おまえ、なにを勝手なことを……！」
　エルフマンは冷静さをすっかり欠いていて、いまにもナツに掴みかかりそうな勢いだった。
「大丈夫だ、リサーナだって妖精の尻尾の魔導士なんだぞ。……自分の妹を信じられねえなら、オレを信じろ。少しでも危険だと思ったらオレが沼に飛び込んで、魚のエサになってやるよ」
　そう言って、ナツはニカッと笑ってみせた。
「……ナツ……」
　確かに、実際チャンスがあるとするなら、その方法以外考えられなかった。
　接収を確実に成功させるためには膨大な魔力をコントロールしなければならない。以前に比べてその精度や成功率は格段に上がったとはいえ、当然、魔法を形成させるまでにはそれなりの時間がかかった。しかも、魔力をほとんど使い切ってしまうため、どうしても一度の発動が限界だった。失敗は許されない。
「……わかった、やってみよう」
　エルフマンは渋々承諾した。
　ぱっと顔を綻ばせるリサーナをやれやれと呆れたように見たあと、ナツに向かって言った。
「やるからには、オレは魔法に集中する。リサーナを、頼んだぞ、ナツ」
「ああ、任せとけ」
　ナツは力強く答えた。