2013年07月27日(土)
茄子。
茄子です。なすびです。エッグプラントです。オバジンです。
茄子が好きだ。茄子は素晴らしい野菜である。
ころんと丸みを帯びた可愛らしいフォルムもさることながら、あのみずみずしい光沢と艶、そして深い濃紫色の美しさたるや他の野菜の追随を許さない。
当然、茄子は食してこそその真価が発揮される。煮てよし、焼いてよし、揚げてよし。和食、フレンチ、中華、イタリアン、エスニック、世界各国どんな味付けにも対応できるオールマイティでフレンドリーな食材。しかも、水分を多く含みながら油との相性が抜群に良いときている。スポンジ状のボディは、どんな料理の中にあっても上手に他の食材の旨味を取り込んで、あっさりとその場になじんでしまう。逆に、余計な味付けをせずとも、クリーミィな口当たりと嫌味のない優しい甘みは、単体でも十分主役になりうる存在感だ。
とにかく茄子は私にとってとてもスペシャルで、デラックスでトレビアンでファンタスティックな存在なのだ。
茄子を発見してくれた人類の祖先よ、ありがとう。茄子をこの地に生み出してくれた地球よ、ありがとう。

ところで、私はモロッコインゲンも大好きです。
モロッコインゲンの素晴らしさは筆舌に尽くしがたいのでここでは割愛します。

あ、ねぎは滅んでいいです。

2013年07月16日(火)
電球の明かりが好きだ。
日没後から夜に差し掛かるくらいの時間帯の、逆光に切り出された住宅の窓から、薄ぼんやり漏れるオレンジ色の明かりをみると、訳もなく心がきゅーんとなったりする。
こういうのって子供の頃の記憶が関係してたりしそうなものだが、私のこれについては特に印象深い出来事があったとは思えない。あったとしても覚えていない。きっと、そういう大げさなものではないのだろう。
歓楽街の派手なネオンも、クリスマスのイルミネーションも綺麗だと思う。高台から見下ろす都会の夜景も好きだ。しかし、そういう美しい光とはまた別のなにかを、私はこのオレンジ色の窓から感じとっていて、そこに大きく心を動かされている。気がする。
生まれつき持った目の病気のせいもあり、私は何かを"見て楽しむ"ということを、イマイチわからないまま大人になった。人の顔は覚えられなかったし、ようやく覚えたところでかなり近づかない限り本人だと確信が持てないため、最初からあまり見ないことにするクセがついた。「ホラ、あれみてすごい」と言って誰かが指さしたものはまず視認できないことがほどんどだったし、実際に見ることができても、それはきっと彼らが見えてるものとは違うだろうという気持ちで見ていた。私にとって、それは別段哀しいことでもなんでもなかったが、好意で美しいものを教えてくれようとする彼らに対して、罪悪感を持たせないための説明をしなければならないことが単に面倒だった。
三年前に左目、翌年に右目と、それぞれ二度目と三度目の角膜移植をしたことで、私は人生ではじめて両目同時に人並みの視力を得た。そうなってわかったことだが、夜景はもちろん、街灯やヘッドライトの光ですら、当時の私には別のものが見えていた。それは美しかった。見ようとしても見えない代わりに、脳内でわりと好きに解釈できたからだ。こうだったりしてああだったりして、というファンタジーを楽しむこともできた。だから「余計なものが見えないぶん、私が見ている世界のほうが美しい」という説明は、ほとんどが本心からくるものだった。その常套句に、周りは「たしかにそれはそうかもしれないね」と言ってくれていたが、そこに同情や哀れみがまったくなかったわけではあるまい。なぜなら、今の私には"余計なもの"が見えることがとても新鮮であり、驚きであり、それが真実だと心から確信を持てる要素であることが浮かれるほど嬉しいと感じるからだ。当たり前に見えていたならきっと、目に映りはすれど脳が認識もしないだろう風景に、いちいち感動してしまう。
手術の時期として最適だったとはいえ、もっと早くこれを知っていたら、なんて思う。
でも、こうして創作を始めようと思ったのは、それが今だったからで、電球色の明かりが漏れる窓を見た時に感じるアレを、ずっと胸の中に持ち続けていたのは確かで、それを表現できるような気がしているのも、今現在の私でしかあり得ないのだ。

と、なんかちょっとエッセイ風にかっこつけてみたが、なにが言いたいかというと、夏はやっぱ冷えた麦茶だよねってことです。

2013年07月14日(日)
暑い。





暑い。
2013年07月06日(土)
夏だあああああああああああああああ。

夏です。
みなさんよくご存知の通り、夏野郎の私は夏が大好きです。夏バンザイ!

ちょっとゴキブリの話でもしましょうか。
彼らの生命力は生物として一線を画しています。氷河期を乗り越えて古代より形態をほとんど変化させることもなく生き延びてきて、いま現在でも、地球を実効支配している我々人間が、恐怖をおぼえる存在です。
彼らは一見食べ物らしきものがなくとも、ほんの少しの汚水があればそこから養分を吸収し、人間の髪の毛すら喰らいエネルギーとすることができるといいます。体の一部をもいでも、再生こそしませんが、最低限の稼働力さえあれば手近なところにいくらでも食料があるため生き延びます。頭を千切っても数週間は生き続けるというのは某コピペで有名な話ですが、その死因は餓死だというから驚きです。クチがないからです。
もう、なんのために生きてるのでしょう。

ただ、真偽は謎ですが、彼らの雌は死ぬ直前で抱えた卵を周囲にぶちまけると聞いたことがあります。それはあたかも「私が死んでもかわりはいるもの」とでも言いたげな感情のない無機質な死のように見えて、その実、必死で生に執着していることに他なりません。そう考えるとなんだか少し切ないような気もしましたが、気のせいでした。
巨人が現れて人類が滅びても、きっと彼らは余裕で生き延びるでしょう。地球が水浸しになっても、エラ呼吸を習得しそうな気すらします。ひょっとしたら高度な文明を持つ星と交信くらいしてるかもしれません。というか、彼ら自身、宇宙を箱庭のように育てて見守っている神レベルの存在が放った監視用小型通信機的な何かだったらどうしよう。

このように、彼らのことを考えると妄想が尽きません。
でもはやく滅びればいいのにと思っています。

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