「あいつ、今日はなんだかちょっと変だぞ」
「リサーナのこと？」
　手のつけた様子のない朝食の皿を機械的にトレイにのせながら、ミラジェーンは静かな眼差しで弟を見上げた。
「昨日、珍しくひとりで出かけたっていうし、外で何かあったとかじゃねえよな……姉ちゃん、なにか聞いてないのか？」
「さあ、私は何も。でも、リサーナなら大丈夫よ。きっと久しぶりに町の外へ出て疲れたのね」
　エルフマンはなお腑に落ちない表情のまま、大きな手でホットミルクの入ったカップを不器用に持ち上げ、ひと口飲んだ。
「エルフマンは本当に心配性ね」
　ミラジェーンはそう言って優しく微笑む。
「……リサーナは、本当に強くなったわ。いつまでもあんまり過保護にしてると、そのうちあの子に負かされちゃうわよ」
　エルフマンがぎょっとしたように顔をあげる。ミラジェーンはくすっと笑ってから、くるりと背を向けてキッチンへと消えた。

　悪夢の余韻は、ナツの記憶の感覚に残されていたルーシィの体温までたかだか数日できれいにかき消してなお、ふとした瞬間に思い出しては吐き気がするほどに尾を引いていた。今ではもう、ルーシィを抱いたあの夜の出来事が全て幻だったと考えるほうがしっくりくるほどだ。
　あれから、ルーシィの部屋を訪れることがどうしてもためらわれ、ナツはしばらく自宅に閉じこもった。ルーシィに会い、声を聞いて、その笑顔を向けられるのが怖かった。それが罪悪感と言うものであることは、ナツにもわかっていたが、それが何に対してなのか、どこへ向かうものなのか、そんなことを考える余裕すらなかった。
　ナツがふらりとギルドを訪れたのはそれからさらに数日後のことだった。
「おうナツ、久しぶりだな」
「仕事の骨休めにしてはちょっと長すぎるんじゃねえか？腕がナマっちまうぜ」
　仲間たちに声をかけられて、ナツは少しホッとしていた。やはりここは自分の帰るべき場所なのだと改めて実感させられる。
　まだ午前中のホールは、そこそこ人で埋まっていて騒がしい。新しく仲間として迎えた新人魔道士もちらほら見受けられた。これから仕事へ向かうのか、旅の装備で食事をしている者や、朝からすでにテーブルに何本もの酒の空き瓶を並べた酔っ払い連中、一心不乱にクエストボードをチェックする者、実に相変わらずの光景だ。
「ナツ、なにか食べようよ。オイラ、お腹ペコペコ」
　ハッピーが情けない声で訴えた。
「ああ、そうだな。久しぶりにミラのメシでも……あれ？」
　ナツがきょろきょろとあたりを見回す。そういえば、今日はまだミラジェーンの姿を一度も見ていなかった。
「めずらしいな」
　立ち上がってカウンターを覗きこむが人の気配はない。
「なんだ、厨房も誰もいねえぞ」
「リサーナもいないみたいだね」
　例の仕事から戻って以来、リサーナはちょっとしたお使い程度の簡単な仕事以外では、外部からの依頼を一切請けていなかったが、その代わりにギルド内の雑用を進んで買って出、ミラジェーンを支える役割に徹していた。タイミング的にも、ギルドメンバーや訪問者が増えたことで内勤の仕事はミラジェーンひとりでは手一杯になりつつあったし、普段からよく姉の手伝いをしていたリサーナがギルドに常駐するようになったのも、はたから見てごく自然なことだった。
「ちょっと見てくる」
「うん」
　ナツはカウンターの横を通り過ぎ、裏口のドアを開けて外へ出た。と、すぐに二人の気配を感じて、つい足が止まった。なんとなくただならぬ空気に触れた気がしたからだ。
　リサーナとミラジェーンは裏庭の酒樽の影に向い合って立ち、なにか話しているようだった。
「……本当に、なんでもないの。ただちょっと、疲れが溜まってるだけみたいだから」
　ぼそぼそと小さな話し声だったが、立ち聞きするつもりはなくともナツにはクリアに聞こえてくる。
「昨日だけじゃないでしょう。どうして先週もクリニックへ行ったこと黙ってたの？しかもわざわざ隣町まで出て」
「それは……っ、よ、用事のついでだったから……それに、言うほどのことじゃないのよ、本当に」
　ナツはどきりとして固まった。
（……クリニック？リサーナが？）
　嫌な汗が噴き出るのを感じる。
「……そう」
「うん……大丈夫だから。ホラ、薬だってもらったし。心配しないで、ミラ姉」
　リサーナの声音は不自然に明るかった。ナツは耳を塞ぎたくなったがじっと身動きせずに耐えた。
　ミラジェーンがふう、と細く息を吐き出す。ややあってから口を開いた。
「……北の村での仕事の後」
「……！」
「あなた達が無事で帰ってきてくれただけで私、本当に安心したのよ。もう、それだけでいいって思ったの。だから、何があったかは聞かないつもりだった。あなたは賢い子だから、きっとそうするのが一番いいと判断したんでしょう。それなら私は姉として妹を、リサーナを、信じる」
「……ミラ姉」
「いつか、話せる時が来たら、話してちょうだい。……家族なんだから」
　淡々としてはいたが、優しく柔らかい口調だった。リサーナの返事を待たずにミラジェーンは踵を返すと、ナツのいる扉の方へ向かって歩き出した。ナツは咄嗟に隠れるべきか迷ったが、身体が硬直してその場を動けないばかりか、顔を上げることすらできなかった。だが、ミラジェーンは少年の姿をその目に捉えても少しも表情を変えることなく、無言でその横をするりと通りすぎ、ドアから中へ入っていってしまった。

　どさり。
　その場に立ち尽くしていたナツは、庭のほうから聞こえた物音でハッと我に返った。
「リサーナ！」
　慌てて駆けよると、少女は積まれた木箱に寄り掛かるように倒れ込んでいた。
「ナツ……？」
　リサーナが驚いて目を見張る。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫、ちょっと足元が、ふらついただけ」
「……そうか」
　ナツに支えられながらリサーナは慌てて起き上がった。触れた肩が少し震えているように感じた。
「それより、ギルドに顔を出すのは何日ぶり？……まったく、ハッピーが愚痴ってたわよ、ナツが仕事しないーって」
「……なあ」
　リサーナの軽口を無視したわりには遠慮がちな口ぶりでナツがたずねた。
「さっき、ミラと話してたことだけどよ」
　だが、その目は決して話をそらしたりごまかしたりさせてくれそうにない。
「……やだなあ、聞こえちゃってたんだ」
　少女は渋々と言った面持ちでつぶやいた。
「クリニックってなんだよ。おまえ、どこか悪いのか……その、」
　ナツはいったん言葉を切ると、少し考えてから口を開いた。
「あの時のこと、が、関係してんのか」
　リサーナが気まずそうに下を向く。ナツは構わず続けた。
「なあリサーナ、オレには、ちゃんと話してくれよ。……ミラやエルフマンには、言えねえことなんだろ」
　リサーナはうつむいたまま、一つ息を吐きだした。
「おなかの、調子が、ね。よくなくて」
「おなか……って」
「……生理が止まってるの」
「……」
　思ってもみなかった返答に、ナツは言葉をなくした。直後に、グランド・イーターの耳障りな声が頭に響いた。
――お、おで、おでの、こ、こども、う、う、うませる、この、お、おんな、に、おでの。
　さあっと全身の血の気が引いた。
「そ、それって……どういう……ま、まさか、お前」
　いや、いくらなんでも、突拍子もない話だ。目の前が真っ暗になりそうで、ナツは思わず後ろの酒樽に寄りかかった。
「……ナツってば、今ヘンなこと考えたでしょ」
「へ？」
　リサーナは少年の反応をちょっと意外に感じた。同時に、言ってしまってから、妙にホッとしている自分に気づく。
「大丈夫。別に、身体に異常があるわけじゃないみたいだから」
　リサーナは努めて冷静な口調で慎重に言葉を選んだ。
「心因性のもので、その……一時的に、……機能が停止してるだけ……なんだけど」
「……」
「でも、このままの状態が長く続いたら、もう、その機能は、戻らなくなっちゃうかも、って」
「え……」
　そのままパッとナツを見上げる。
「赤ちゃんができなくなっちゃうってこと」
　なんでもないことのように、自分の声がそう言ったのを聞いた。水の中から外の音を聞く感覚に似ている。薄いブルーの透き通った視線が、ナツの両の瞳をとらえた。それはとても神妙で、隠しきれない動揺がありありと表れていて、そして、ひどく悲しげだ。
（この世の終わりみたいな顔してる……）
　それを認識している自分が、まるで第三者の視点になったようだった。笑い出してしまいそうな妙な気分だ。
　ナツの小さな黒い瞳がさらにきゅっと縮んだかと思うと、震える唇からかすれた声が漏れた。
「……ウソだろ」
　大きな三白眼から透明な雫がぽろりと落ちた。スローモーションのように、美しい水滴がゆっくりと落下していくのを、少女は無表情に目で追った。雫が地面にたたきつけられた瞬間、リサーナの中でぱつんと何かがはじけたような気がした。
「う……あ」
　張りつけたような笑顔はみるみる歪み、突然信じられない量の涙が一気に溢れ出した。
――なんで？どうして？
――私は、なにも悪いことしていないのに。どうして私なの？
「うわあああああん」
　湧き上がる衝動に溺れてしまいそうだった。それはあまりに苦しく、リサーナは初めて声を上げて子供のように嗚咽した。北の村のあの宿で、ナツの胸に顔を埋めて声を殺して泣いた時よりもずっと、暴力的な、なりふり構わない感情だった。
　ナツは考えるより先にリサーナを抱きしめていた。他にどうすればいいかわからなかった。
「ごめん、リサーナ、ごめんな」
　つい発してしまったその言葉に、少女はピクリと大きく反応し、ぐっと嗚咽を抑えこんだ。
「やめてよ……ナツのせいじゃない、誰の、せいでも……ない……」
「……」
「……ナツ、私ほんとは怖い、すごく怖いよ。ここ数ヵ月、ずっと怖かった。あの化け物のぬるぬるした触手の感触がずっと残ってる。今でも毎晩のように夢に出てくるのよ、あいつの声が、はっきり聞こえるの」
「リサーナ……」
「もう、いや、こんなのいやだよ。このままずっとエルフ兄ちゃんを、ミラ姉を、……ギルドのみんなを騙して、平気な顔して、ヘラヘラ笑って、バカみたいよね、本当は……」
「もういいから、今はそんなこと考えんな」
「本当は、あいつにっ、……あ、あああんな気持ちの悪い、ば、化け物にっ、わ、私っ」
「よせ、リサーナ、もういいって言ってんだろ」
「ああ……ナツ、助けて、ねえ、お願い……ナツ、私のそばにいて……怖いの、ねえ、離れないで……ひとりにしないで……お願いよ」
　ナツはすがりついてくる華奢な身体を包み込むように両腕に力を込めた。たとえどれだけ強く抱きしめたところで、リサーナの心を救う術はナツにはわからない。それでも、未来を失ったも同然の心境に違いない目の前の幼馴染の少女に、自分が差し出せるものは全て差し出したいと思った。こうなったのは、自分の責任でもあるのだから。
「わかった……わかったから、そばに、いるから、……泣かないでくれ……頼む」
　胸がチクチクと傷む。ナツの中にあった罪悪感の正体はまだ具体的に形を成してはいなかったが、それがまるで大蛇のように鎌首をもたげ、些細なきっかけでいつでも自分を食い殺すであろうことはうっすらと想像できた。